【今でも忘れられないでいる不良の女の子】

この、袖がナイロンになった、フリースジャケットは、セカンドストリートで購入。1500円くらい。胸とバックには、サングラスをかけ、キャップを被ったヤンチャそうなアメコミの像の刺繍が入っている。ネットで検索したところ、「ブラックギャング」というマイナーな海外ブランドだった。とても、気に入っている。私が、中学生の頃、「bad boy」という、ティーンネイジャーブランドが流行っていた。「ブラックギャング」も、おそらく、そんなノリのブランドだろう。「bad boy」は、ルーズなジーパンや、Tシャツを主に生産していた。当時の田舎の不良にとても人気があった。他に、ドクロのパイレーツマークの「クリームソーダ」や、奇抜なデザインのアイテムが多い「スーパーラバーズ」なんかも人気があった。「スーパーラバーズ」は、パンクよりで、「クリームソーダ」は、どちらかと言うと、ロックよりだった。と言っても「クリームソーダ」は財布以外、アイテムが多い「スーパーラバーズ」なんかも人気があった。「スーパーラバーズ」は、パンクよりで、「クリームソーダ」は、どちらかと言うと、ロックよりだった。と言っても「クリームソーダ」は財布以外、アイテムを見たことがない。「クリームソーダ」はナイロンの長財布だったので、カッターナイフで、ボディに切れ目を入れ、そこにプラスティックの櫛(くし)を刺して、ヒップポケットに入れて使うのが、当時の私たち中学生の間では流行っていた。勿論、当時の私も黒い「クリームソーダ」の長財布を使用していた。財布と言えば、ハーレーダビットソンの皮の財布も流行っていた。こちらも、皆、申し合わせたように、ヒップポケットに入れ、ウォレットチェーンを垂らしていきがっていた。中学生とは、そういう生き物なのだ。そして、皆、女の子やSEXの話しばかりしていた。田舎の中学に通っていた私は、一応、友達と呼べる仲間はいるにはいたが、彼らと一緒にいても気持ちはどこか上の空だった。そんなことより、恋人が欲しかった。男たちの下品な会話も、私を喜ばせはしなかった。どちらかと言えば、軽蔑していた。適当に話しを合わせて、時には私も下品なことを言った記憶がある。そんなあるとき、学校の帰宅途中、後ろから二人組の不良の女の子に呼び止められた。そして、そのうちの一人の不良の女の子から、彼女の自宅の電話番号の書かれた紙を渡された。同時に、私の家の電話番号も聞かれた。当時、私は、複数人、好きな女の子がいたのだが、私に近づいて来た二人の不良の女の子、どちらに対しても、軽い恋心を抱いていた。でも、どちらかと言うと、私に、電話番号の書かれた紙を渡してきた不良の女の子のほうが好きだった。顔だけで言うと、付き添いの不良の女の子のほうが明らかに美人なのだが、何故か私は、私に電話番号を渡してきたほうの不良の女の子のほうが好きだったのだ。実は、彼女が、廊下や体育館で、すれ違うたびに、私のことを、チラチラと見ていることに気づいていたのだ。それで、私の方も気になっていたのだ。その夜、彼女から電話がかかってきた。最初に電話に出たのは、私の母で、物の言い方が悪かったらしく大変憤慨していた。しかし、不良だからしょうがないのだ。勿論、彼女から電話がかかってきたことは嬉しかったのだが、当時、女の子と話すことに慣れていない私は、大変緊張した。おまけに私の苦手とする不良なのだ。会話の中で、彼女の自慢話になってきたので、私は、適当に相槌を打ちながら彼女の話しを聞いていた。すると、なんでも、当時、私の学校で乱暴な不良の中でも1位、2位を争う不良男子からよく彼女の自宅に電話がかかってくると言い出したのだ。ということは、その乱暴者の不良が彼女に恋をしているということではないか?それを聞いて、彼女と電話で話していることが怖くなった。何故なら、もしも、彼(乱暴者の不良男子)に、私が彼女と電話で話していることが、耳に入れば、私は、ただではすまない事態に立たされるではないか?その日は、彼女と三十分ほど話して電話を切った。勿論、もう私は、彼女のことが好きになっていた。しかし、彼女に想いを寄せている不良男子のことを思えば、うかつに手は出せない。そう、私は、青春の真っ只中にいたのだ。結局、彼女からその後も二、三回電話がかかってきたので、当たりさわりのない話しをして電話を終えた。勿論、私の方から彼女に電話をかけることはなかった。あるとき、彼女の友達の不良の女の子から電話がかかってきた。内容は、彼女(私に想いを寄せている不良の女の子)のことを、どう思っているのか?という内容だった。私は、曖昧な返事しかできなかった。勿論、説明するはずもないが、不良男子が怖かったからだ。しかし、そんなこと口にできるはずがない。当時、ティーンネイジャーの私は、プライドがあったのだ。カッコ悪くて口にできるはずがないのだ。結局、私は、中学を卒業して高校に通うようになっても、(二人は別々の高校に進学した)彼女のことが忘れられなかった。そして、大人になった今でも彼女のことを忘れられないでいるのだ。Facebookが作られた時に、真っ先に調べたのが彼女の名前だった。しかしヒットしなかった。今でも、彼女のことを時々、懐かしく思い出す。当時、流行っていた曲は、パフィーの「これが私の生きる道」だった。彼女と電話で話すようになってから、学校で彼女とすれ違うたびに、彼女は、なよなよしている私に対して、あてつけるように「近頃、私達は、いい感じー」と、私に聞こえるように歌で仕返しをしてきた。そんなことを、ボンヤリと思い出す今日この頃なのであります。そして、人生はこれからも続いていくのだ。